自責思考100%の私と他責思考100%の夫
夢をあきらめた自責の念
″やっての後悔は月日が経てば薄れるけど
やらなかった後悔は月日が経つほど膨らむ″
どこかで目にしたフレーズが
胸に突き刺さる
あの頃
諦めなければ叶う
と純粋に信じていたから
諦めない自信も根性もあったから
輝いていたころの私から
日々遠ざかっていくことの
日々諦めていくことの自責は
日々膨らんでいくばかり
頭の隅っこに追いやったままの
いつかは捨てるはずの
今ではもう
″焦り″しか運んでこない夢を
歳のせいにして30の歳に捨てたとき
心からほっとしたのは
諦めた自責から解放されると思ったから
自責思考100%の私と他責思考100%の夫
夢を捨て
自分を捨て
日々の生活の緊張は
人生最後の結果の予測までも
簡単についたけど
道を間違えたのは私で
この道の
その責任を果たすのも私の責任
だから
かわいそうなぐらい頑張っている
頑張る私の自信やら人権やら人格やら
粉々に砕きながら
夫の求めるものは
もっと夫のために頑張ること
それでも
自責思考100%の塊の私は
誰かのせいにする思考はない
ここでは
それしか通用しないことを了承済み
相手は
他責思考100%の塊の夫だから
前進のための
当事者意識は評価されることもなく
否応なしに強制される自責に
自己肯定感は影すら消えて
評価されるとすれば
理由も分からず
自分を責め続けることだから
ここでは
前進も成長することもない
起きた問題は
当事者だろうと局外者だろうと
問題じゃなくて
ただ夫の投げつけた責任のボールを
100%私が拾うことで解決済みとなる
ただそれだけだ
子どもにいちばん伝えたかったこと

母に教わったように
子どもに伝えたかったことは
たくさんあったけれど・・・
だけど無意識の中で
いちばん伝えたかったことは
″お母さんのようにならないで″
だったのかも知れない
悲しすぎるし情けないし惨めなそれを
意識にあがってこないとこで
ずっと叫んでいたように思う
結婚する娘が
懐かしそうに読んでいたのは
幼稚園で用意してくれた
お誕生日に贈るメッセージカード
生まれた日のこととか
名前の由来とか
赤ちゃんのときのエピソードとか諸々
「こんな子に…育ってほしいな」の囲みには
私からのメッセージが書かれていた
自分の夢に向かって強く生きていける子
生命のある全てのものに思いやりを持てる優しい子
おじいちゃんおばあちゃんを大切にできる子
″自分の夢に向かって強く生きていってほしい″
そのときの思いを
そのまま文字にしたのを覚えている
″ママのように諦めないでほしい″
そのときの思いの下にある思いを
間違っても文字にできるわけがない
″夢はある方がいい″
という前提で
素敵な言葉のようだけど
静かに圧のかかったメッセージで
価値観の植え付け
だけど
″夢″って
目標になって生きがいになって
迷うことなくブレずに進んでいけて
人生の達成感がありそうで…
″夢を持てるといいな″
そんな思いもあってのメッセージ

夢を持つことのデメリット
夢が″目標″に変わることもなく
″夢″で終わった私だから
非現実的で
ふわっとした感じで
小っ恥ずかしい
″夢″の単語しか使えないのが悲しくて
そしてそれを
誰かのせいにしてみても
追わずに諦めた自分が情けなくて
夢を捨てても
自責の思いは捨てられず
忘れたいことほど忘れられず
捨てたいものほど捨てられない
そんなふうに
″夢を持つ″ことのデメリットは
確かにあるから
だから
″力強く″ 夢に向かって進める子
そんな子に育って欲しかった

格好悪い本音を言葉にするのは自分のため
だけど
夢を持とうと持つまいと
夢が叶おうと叶うまいと
とにかく
納得できれば
人生満足できるんだろうな
と思う
さらに言えば
納得できようとできまいと
満足できようとできまいと
人生だから
そんなものだから
そして
今までの私の人生
そんなもんだったから
私がいろいろ伝えるまでもなく
私を見て育ち
夫を見て育ち
娘はむすめの人生を
たくましく力強く歩いている
その背中を見ているのはわたしで
後に続いて
私はわたしの人生を歩いて
納得しようと思う
もともと前に進むための
自責は持ち合わせているから
私の問題改善のためには
他責も大事なこと
私だけのせいじゃないと知ることで
100%の自責を強制されたことに
怒ることで
前に進んで行ける
あえて
自責他責ふまえて
今だからこそ
誰に言うともなく堂々とつぶやく言葉は
″私のようにならないで!″
情けなく惨めで
かっこ悪い本音を口にすることで
私の内側で
自分が変われる確信が生まれてくる
変わらなきゃいけないって強く思える