納得できる毎日がいいけれど、死んだように生きる現実もそれはそれでいい。

日々のこと,脱モラハラすっぱい葡萄,甘いレモン

生きながら死んでいた

夫の不倫がなかったら
モラハラを知らないままだったら

今でもあの夫婦関係のまま
あの幸せそうに見える私でいただろう。

叫びたいのに、かきむしりたいのに
張り裂けそうなのに、何もない。

抜け殻。

生きながら死んでいるような

身体の真ん中に空いた大きな穴に
気づかないように、

今でも空を見上げて笑っていただろう。



・・・・・ゾッとする。



今の私の中には〝自分″ がちゃんと居る。
だから前に進みたいと思う。

1週間前より一歩、1ヵ月前より一歩、
一ミリでもいい。

前に進めたら
きっと楽だと思うから。

ポジティブ思考が鼻につく



だからといって



簡単じゃない…

前向きな言葉に
私のどこかが痛めつけられる。

「よっしゃ!」とは、いかない。

あっちでもこっちでも
ポジティブ思考はイケイケで、

あたり前のように
遠慮もなく、躊躇もなく、

まるでそれが正義かのように、

みなぎる自信と共に
溢れんばかりの笑顔と
疑う余地もない健全さで

キラキラと輝いたまま

不健全な
私の胸を突き刺す。

そしてえぐる。




売られているポジティブが鼻につく。
辟易へきえきする。

正直に言うと…へどが出る。

涙も出る。

そして私は、

私の似非えせポジティブ思考
で、
今のこの局面を
どうごまかすか、考えている。

死んだように生きる、ということ

「死んだように生きる」

ことさえ許容できたら
生きるための最小限の
生理的欲求は満たされている。
それって
何と幸せなことだろう。

今までのように
「生きながら死んでいる」
ということじゃない。

死んだように生きる、
「生きる」ということ。

檻の中の動物のように生きる、ということ。

ただ生きる、ということ。

それさえ許容できたら…

納得できたら…

正当化できたら…

私は情緒的に安定する。


すっぱい葡萄と甘いレモン


「すっぱい葡萄」と「甘いレモン」の概念。

板についている私の適応機制。

負け惜しみだとか、
逃げだとか、言い訳だとか、
あたり前の正論を
言わないで欲しい。

適応できないストレスから

無意識に
自分の心を守り、
そして自分と戦ってきた
私の適応機制は

折れない強さの根元。




話合いもない、問題解決もない、
正論は通じない、論点は一瞬ですり替わる。

夫の都合でコロコロ変わる事実、

言っていることとやってることの真逆のズレ、

混乱し疲弊し削られる、私の脳みそと精神。

夫の究極の目標は、全的支配と妻の全的服従。

絶望していく私の
心の防衛機制は
「すっぱい葡萄」と「甘いレモン」。

すっぱい葡萄 – 現実からの自己防衛 –

お腹を空かせたキツネは、たわわに実ったおいしそうなブドウを見つけた。食べようと懸命に跳び上がるが、葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無い。キツネは、悔しさから「あのブドウは酸っぱいにちがいない。」と言って取ることを諦めた。というお話。

要するに「どうしても手に入らないモノは、自分を納得させる理由をつけて諦める」というお話。

甘いレモン – 後悔したくない自己防衛 –

必死になって、ようやく手に入れたレモン。キツネは「このレモンは甘そう」とレモンをかじる。酸っぱそうな顔で「やっぱり甘い。もしかしたら諦めたブドウより甘いかも…」とレモンをかじる。というお話。

要するに「自分の持っているモノに、現状以上の評価をつけて正当化し、自分を納得させる」というお話。

すっぱいレモンでいい


例えば
仕事でも恋愛でも
人生でも買い物でも

日々の生活の中の
不満足な
いろんな場面で

現状に納得するため
誰でも無意識に使っているはずの

すっぱい葡萄と甘いレモンの論理。



今の私はというと

一度あきらめた
「ブドウの木」はもう無い、

そう思う。

甘かろうと酸っぱかろうと
私は「レモン」でいい。

現実に有るのはそれだから。

あの手この手で
ちゃんと甘くするから、
それでいい。

絶対というわけじゃないけど、
それもそれでいい。

甘かろうと酸っぱかろうと
私はそれでいい。